distortiontelecaster’s diary

おんがく せいかつ

起床

眠ってから起きたというのを大体これまでSNSで報告していたがブログでやってみるという実験。

いや別に「起きた」とか他者に報告しなくて良すぎる。いや絶対に報告しなくて良いやつ。

他の人の睡眠時間や睡眠について知る必要があるのだろうか? いや、ない。

自分の睡眠時間を知ってもらう必要があるのだろうか?いや、ない。

 

なぜSNSをやりたくなるのか、それは多分「孤独感がやわらぐ」ということだ。「なんかみんなと一緒にいる」感覚になるし、「気にしてもらえている」というのがわかるんだけど、それをずっとやっていると、今まで作られてきた、体験してきた人間関係や趣味の世界のみの世界から出られなくなるような感覚がある。たとえばSNSの趣味で繋がった人が全員ライブに行っている(ように見える)とする。自分は行けなかったら?間違いなくどうしても羨ましくなり、「なぜ自分だけ?」と少しはなってしまうだろう。「行くのが普通」というように感じてしまう。「次は行こう」となるかもしれないが、それより大事にしたいものがあった場合、大事にできなくなってしまう。行けなかったライブのセットリストが気になるし、感想も気になる。大好きだけど、もうそんなこといったらライブに行かない日は全く幸せに過ごせないということになってしまう。行けた日はいいけど、行けない日というのはどうしても出てくるのでそういった日にまでインターネットに住み着いて感想など確認するというのはマイナスな感情と羨ましい感情が溢れるだろう。キリがない。その間、自分という人生は趣味は進んでいるというだけで、自分のやりたいことは全く進んでいないという事態になっている。

 

また学生時代に繋がった人も卒業後SNS上で近況を毎日のように見るということになるが、それもちょっと危ないと思う。同じ場所にいたぶんどうしても自分との比較をどこかでしてしまっていると思う。そして卒業をしたのにずっと何か過去の時間軸の中にいるようで、頻繁にお互いを知る必要ってあるのだろうか。「私こんなに今こういうことをやっていて凄いんです」ということを知り合いに知らせて、何かメリットがあるのだろうか。と改めて考える。いや何かしらメリットはあるのだろうけど。それをみて「私も頑張ろう」とかなるならいいけど、色々な人(顔も知らない人含め)のそういった投稿や、日記を毎日のように見て「私も頑張ろう」と毎回なるわけがない。それは疲れる。どこかで糸が切れる。そうなった時に「みんなすごいな〜私は…」とか、「みんな人といるな〜私はなぜ…」などといった気持ちにどこかで絶対なるのがSNSなのである。そういうことはSNSではなく会話で「今こういうことをやっていて」とか話すのが1番いい。

 

自分が投稿したら反応が来るということは嬉しいけど、これも中毒性があり何度もやりたくなってしまう。気がついたらSNSに時間をとられている。

 

なかなか「ほどほどにやる」ができないように作られているのがSNSである。

何かSNSで発信して成功したいと思ってやっている場合でも、やはり他者との比較というのはどうしてもしてしまうため、これも疲れてくる。自分は絵や創作物を発信しているが「自分って才能がないな」と数を気にして落ち込む日々である。でも最近、数というのに振り回されるのは間違っていると思った。SNS見る時間を少なくし、人との距離を保ち、本など読んで、やるべきことをやり、もっと広い世界の中(つまり現実)で生きていきたい。